富士屋旅館について
古くは万葉集にも詠まれ湯河原温泉一帯は、良質の温泉が湧く湯所として知られています。
名湯と海山に囲まれた美しい景観、豊かな食材は行楽・静養の地として人々に親しまれてきました。
特に明治中期から国木田独歩、夏目漱石、与謝野晶子、谷崎潤一郎など多くの文人が訪れ、創作の場、交友の場として発展してきました。
富士屋旅館の歴史は古く、江戸後期にすでに前身となる温泉宿があったと伝えられており、実際、昭和43年まで幕末の建物が残っていたそうです。
大正7年に出版された「湯河原案内」によると、富士屋旅館は明治9年に温泉旅館を始め、当時は雅称を「聚芳園」と言い、藤木川に架かる長橋を渡ると広い敷地に楼閣や別館が立ち並び、園内の花々が絶えることがなったと紹介されています。
明治期、富士屋旅館、伊藤屋旅館、中西旅館、天野屋は豊かな自然と庭園の中に本館、別館など多くの建物が建ち、優れた風致を形成していたということです。
旧館
現存する建物の中でもっとも古いものは、大正12年に建てられた二階建ての楼閣風建築「旧館」です。
旧館は藤木川に沿って建てられた檜の三寸六分角柱を用いた細身の建築で、客室の座敷飾り、縁側、廊下など外回りの建具に繊細な組子入り硝子戸を多用するなど、大正期の建築の特色をよく示しています。
関東大震災でもほぼ被害を受けず、湯河原温泉が整備された大正期に建設された上質の建物であり、近代和風建築を知るうえで貴重な遺構とされています。
外から見ると瓦葺入母屋造の角屋が双楼風に突き出しており、約100年の時を経てよみがえった富士屋旅館のシンボルとなっています。
洛味荘
旧館と渡り廊下でつながる建物が「洛味荘」(らくみそう)です。
昭和26年から29年ごろに、京都から木材を運んで建設されたと伝わっています。
改装前は八室あった客室を四室に間取りを変更し、ゆったりとした造りとしています。かつては格天井(ごうてんじょう)と呼ばれるお城や有名な寺などに使われるもっとも格式の高い様式の天井が用いられていました。
特徴的な建具などからも当時、洛味荘が贅を尽くして造られたことをうかがわせる名残が感じられます。
富士屋旅館の離れとして、静けさと落ち着きのある建物です。
新館
正面エントランスから入り、ロビーのある建物が「新館」です。
昭和43年に建てられましたが、傷みが激しく骨組みだけを残してほぼ立て替えています。 古き良き時代の日本のホテルをイメージし、和洋折衷の障子格子と洋風のソファを合わせるなど、どこかレトロ感があり、和のテイストを残した洋室が八部屋と、唯一当時のレイアウトを残した和室が二部屋あります。 和の雰囲気とホテル的な機能性を兼ね備えた建物です。
昭和43年に建てられましたが、傷みが激しく骨組みだけを残してほぼ立て替えています。 古き良き時代の日本のホテルをイメージし、和洋折衷の障子格子と洋風のソファを合わせるなど、どこかレトロ感があり、和のテイストを残した洋室が八部屋と、唯一当時のレイアウトを残した和室が二部屋あります。 和の雰囲気とホテル的な機能性を兼ね備えた建物です。